子供の頃、特に男の子の場合、必ず一度は強い憧れを抱くであろうものの一つに、「漂流記」がある。
近代文明から切り離され、絶海の孤島でたった一人生きぬかねばならない。文明の利器は何一つなく、頼れるものは、おのれの身体と、近代科学の知識のみである――。魅惑的な南海の孤島を舞台とし、近代的合理精神の粋を集めた漂流記物語には、人々の冒険ロマンを掻き立てずにはおかない魅力がある。そして、その元祖は、言うまでもなくダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』である。冒険心と経済的合理主義に満ちたこの作品は、のちに「漂流記もの」という新しいジャンルを生み出した。
ところで、「漂流記」と言えば、『ロビンソン・クルーソー』と並び、もう一つ有名なのがジュール・ヴェルヌの『二年間の休暇』であろう。『十五少年漂流記』の邦題を持つこの作品は、「少年を主人公とする漂流記」という設定の妙、思春期の友情と反目という深いテーマ、特にわが国においては黒岩涙香という類稀な翻訳者を得たことで、『ロビンソン・クルーソー』と並称される傑作となった。
今回紹介する『神秘の島』も、同じくジュール・ヴェルヌ原作の漂流記ものである。知名度こそ『ロビンソン・クルーソー』や『二年間の休暇』には及ばないものの、内容的にはそれらの遥か上を行き、間違いなく、あらゆる漂流記の中でも最上の作品である。
まず始まりからして、他の凡百の作品とは一線を画している。たいていの漂流記は、主人公の乗船が難破(座礁)し、無人島に漂着する、という感じで始まるのだが、『神秘の島』では主人公たちの乗り物は、帆船ではなく気球である。この本の書かれた十九世紀において、気球は当時最先端の乗り物であったことを考えると、極めて秀逸な設定だ。
主人公たちは南北戦争時代、南軍の捕虜として南部の首都のリッチモンドに捕われていたが、気球に乗って脱出を図った。だが折悪しく嵐に見舞われ、太平洋上をさまようことになる。
主人公たちの乗り物が船から気球に代わったことは、ただ目新しさだけでなく、のちのちに重大な影響を及ぼす。気球の高度を保つために、主人公たちは持ち物の全てを海に捨てねばならなかったのだ!
漂流記ものは、「文明から切り離された世界で、いかに個人の腕と頭脳で生き延びていくか」がテーマとなるため、漂着当初の装備という基礎設定が、極めて重要になってくる。たいていの漂流記では、乗船は航行能力は失われているが荷物は無事とか、船は破壊していてもナイフや食糧を持っていた、など、あらかじめ自然と闘うための(直接にせよ間接にせよ)「武器」を持っている場合が多い。だが、『神秘の島』の主人公たちの所持品は、身に着けた衣服と、手帳、腕時計、ポケットの中のマッチ一本(これらは後に大きな意味を持つ。後述)、たったこれだけ。本当に、これだけなのだ。あとは一人一人の腕と頭脳があるだけである。「漂流記は基礎設定が非現実的すぎる」と評価の厳しい方々も、ここまでは否定できないだろう。
辿り着いた当初、主人公たちは、まず火を起こすのが大きな問題となる。ポケットに入っていたたった一本のマッチが、この時には、かけがえのない大切なものとなった。彼らは震える手でマッチを擦る。だが、そうして点した生命の火も、たった一雨で消えしまった。
石器時代の漫画を読み過ぎた僕たちは、つい「木と木を擦り合わせ、摩擦熱で火を起こす」などと凡庸な発想をしてしまう。だが、主人公の一人にして最高の科学者、技師のサイラス・スミスは、そのような非現実的な手段は採らなかった。彼は、先の腕時計のガラスを用いてレンズを作成し、太陽熱で火を点したのだ! このことは様々な事柄を象徴している。
プロメテウス神話を例に挙げるまでもなく、火が人間のあらゆる発展の根本となっているのは明らかだ。今はマッチやライターでこともなく起こすことのできる火が、かつてはどれほど苦労して生み出されたものであるかは、想像に難くない。だが『神秘の島』の主人公たちは、ガラスのレンズという近代科学の産物を利用することで、見事に文明の火を作り出したのである。これこそはまさに近代科学の象徴といっていい。
最初の、そして最大の難関を乗り越えた彼らは、次々と様々な困難に挑んでゆく。特に圧倒的に読者に迫るのは、鋼鉄の精錬、そしてニトログリセリンによるグラニットハウスの作成のくだりであろう。製鉄とダイナマイトは、いずれも産業革命の象徴である。かれらはそれを独力で成し遂げた。
『宝島』などの宝探しは、冒険的資本主義の象徴であるのに対し、『ロビンソン・クルーソー』などの漂流記は、一般に経営的資本主義の象徴とされる。禁欲の精神で自らを律し、経済的合理主義に満ちた物語は、そのまま資本主義の精神の体現である。しかし、『ロビンソン・クルーソー』は、あくまで無人島でのサバイバルの物語に過ぎない。『神秘の島』の主人公たちは、自らを新天地の開拓者と捉え、漂着したリンカーン島を、アメリカ合衆国第五十一番目の州として国家に献上しようとしたのである。
この本の著者のジュール・ヴェルヌは、フランス人である。彼は恐らく、南北戦争以降、急速な発展を遂げるアメリカ合衆国の、自由と平等の理想、合理主義の精神、フロンティア・スピリットに対し、羨望と憧れの眼差しで見つめていたのだろう。主人公たちが自身の到着した島をリンカーン島と呼ぶのも、もちろんこれに由来する。
最後に一つ。この本は終盤に大きな山場があり、そこで一人の人物が登場する。その人物は、ジュール・ヴェルヌの作品にとって重要な意味を持つキャラクターであり、この作品はその一連の物語の延長線上に位置する。その人物とは誰か、物語の結末はどうなるのか、これらについては、ぜひご自身で一読していただきたい。
(参考URL)
ジュール・ヴェルヌ 日本語のファン・サイト Jules Verne Page
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